曼珠沙華咲く巾着田と高麗郷の散策 (第68回 歩こう会)

 秋分の日にあたる9月23日(火)は秋晴れの一日となった。この時期に決まって咲くのが「彼岸花」と呼ばれる曼珠沙華。

 第68回歩こう会はこの曼珠沙華五百万本が群生して一斉に咲きほこる、埼玉県日高市の巾着田を訪ねることになりました。巾着田は高麗川が蛇行した形が「きんちゃく」似ていることから命名されたもののようです。

 午前9時に西武秩父線の高麗駅に末尾記載の11名が集合。この日は祝日にあたるため混雑が予想されたが、天気の良さも相まって駅前は大混雑。迷子が出そうな状況だったが、とりもなおさず一隅に集合して点呼を終え早々に出発した。

 まず最初に、駅近くの古代遺跡「高麗石器時代住居跡」を訪ねた。線路の下をくぐって北口へ進み国道299号線の高麗駅入口信号を左折、車の行き来が激しい車道を注意しながら500~600mほど行ったが、それらしきものに行きつかず、案内板もない。向こうからやってきた人に尋ねると、入口を見落として通り過ぎていたことが分かった。引き返してゆくと右手に目につきにくい案内標識があった。細い坂を上がり、民家の脇に小ぶりな遺跡があった。囲炉裏を中心にした縄文時代中期の竪穴式住居跡で水抜き穴が設けられている。発掘では11戸が発見されたそうだが一戸を整備しており、昭和26年に国指定史跡に指定されている。住居跡からは縄文土器や石器などが多数出土したという。

 国道を高麗駅入る口まで戻り、大勢の人々がぞろぞろと向かっているのに混じって北へ向かう。間もなく右手に旱魃・洪水・水難防止祈願の「水天の碑」がみられる。高麗川に架かる「鹿台橋」を渡ってすぐ川に沿って右折。1周約2kmの道は行き交う人で渋滞している。やがて左手の斜面一帯に彼岸花の群落が真っ赤な絨毯を敷き詰めたように見えてきた。道々花の写真を撮ったり、お互いを写したりする人々で度々立ち止まりながら先を目指す。右手は河原でカメラを構えたり三脚を立てたりの一群が見えた。カワセミを撮ろうというカメラマンのようだ。

 間もなく左手の通路一帯に大型バスが何台も駐車しており、人波が一段と多くなってきたと思ったらそこから先が有料(300円)になっていて観光協会の人たちが集金していた。渋滞も益々激しくなってきたので「11時にあいあい橋に集合」と決めて自由行動。しばらく先の左手にはテントが並んでいて、出店や出し物(ショー)などがあり、立ち寄る人も多い。

 あいあい橋は平成8年に架設された木製のトラス橋で渡った先には民俗資料館がある。全員が揃うのに若干時間を要したので、資料館をスキップして高麗本郷の交差点に向かう。天神橋で高麗川を渡り返した先の右手に高麗郷古民家(旧新井家住宅)があるので立ち寄った。

 新井家は江戸末期に高麗本郷村の名主を務めた名家でその屋敷は江戸末期から明治初期にかけ建築された、広い母屋と瀟洒な客殿を中心に土蔵や納屋を配した堂々たる構えの民家である。今年4月に国の登録有形文化財に指定された。集合写真を撮り、11時集合として自由に参観しました。ボランテイアが邸内を案内し、庭先にはこの時期だけと思われるが売店も出ていた。

 午前11時。古民家を出て高麗本郷の交差点を左に巾着田入口を分け左折して北へ向かうとすぐ右手に「九万八千神社」(草薙神社との説もあり大己貴命を祀る)という不思議な名前の小さな神社がある。立ち止まれずに通過して先を急ぐ。

「かわせみ街道」と名付けられたこの道は車の通行も頻繁なので後報に留意しながらひたすら歩いて行くと道路脇の民家の庭にも彼岸花がぽつぽつ咲いていた。

 2kmほど先の聖天院入口を左折すると「天下大将軍」「地下女将軍」の将軍票が出迎える。この寺は高句麗の末裔「若光」の菩提を弔うため建立されたという。現在は真言宗智山派で高麗山聖天院勝楽寺と号し、本尊は不動明王で聖天(歓喜天)は別壇に祀られている。

 雷門(風神・雷神像が門を守る)を潜り石段を登って、拝観料300円を納め、更に石段を上がると本堂、鰐口と鐘楼の銅鐘は国指定の重文である。広い境内からは日高市の街並みが望めた。山門の脇には若光を祀る多宝塔があった。

 元の道に戻り、10分ほど先の左手が高麗神社である。高麗王若光の徳を偲び顕彰するため建立されたという。一の鳥居の扁額には「大宮大明神」とあった。

 階段を登り、本殿に参拝したのち丁度正午近くになっていたのでお守り授け所の下の休憩所で昼食を摂った。ベンチが多数置かれていたがここも大勢の人で、ばらばらに空いた席を探して弁当を広げた。戸次さん・葛城さんからブドウの差し入れを頂いた。昼食後、池辺先輩は帰りを急ぐため皆と別れ、シャトルバスで引き返すことになった。

 神社の裏手には代々宮司を務めてきた若光の子孫「高麗家」の住居がある。江戸時代初期(慶弔年間)建築の古民家で重文の指定を受けている。藁屋根はかなり傷んでいて草が生い茂っていた。

 神社を出て越生方面に向かい2kmほど北上すると北平沢の交差点に出た。右折するとすぐ左手に高麗の造り酒屋「長澤酒造」がある。江戸時代末期の弘化4年(1844年)創業といい現当主は6代目だそうだ。この日は巾着田の出店に出払っているとのことで酒蔵の見学を断念。店番の女性の勧めで(甘酒アイス)を賞味。駄洒落のような神社エール(ジンジャー・エールのもじり?)なるものも売っていた。「高麗王」「君が旗」「かわせみの里」などの日本酒や奈良漬なども販売していた。

 北平沢のバス停から13時42分発のバスで飯能に向かい、流れ解散した。

参加者
(池辺和郎・小野二六・和江・葛城征志・玲子・土田謙二・戸次笛子・松永幸一・溝部憲治・用正靖彦・梅谷覚雄)以上11名

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