皇居東御苑と千鳥ヶ淵の桜花を鑑賞 (第71回 歩こう会)

 今年2度目となる歩こう会は、当初3月29日(日)に予定されていたが、事前の天気予報で降水確率が80%と発表されたので、急遽3月31日(火)に延期された。(月曜日は皇居東御苑は休日のため)そのせいで参加者が激減(25名から6名へ)したのは残念ながらやむを得ないことであった。

 JR東京駅丸の内北口集合したのは5人。午前9時40分に出発、皇居を目指す。日比谷通りを横切って和田倉門へ、噴水登園の桜はまだつぼみが固いようだ。桔梗濠に沿って北へ向かい、大手門から皇居東御苑へ。大手門手前ではNPO法人「天守閣復元を目指す会」の方がちらし(2020年に天守閣復元)を配っていた。ここで野田さんが合流。通常は発券所で入園票を受け取るのだが、この日は入園者多数のため入園票なしで入園できた。大手門は伊達正宗が建設したとのことだがその後度々焼失、再建されている。入口左手前に旧渡り櫓の鯱鉾が展示さえている。渡り櫓は現在修復工事中であった。

 先ずは三の丸尚蔵館へ。ここは皇室に代々伝わる書画・工芸品等約9,800点を収蔵。平成5年11月から適宜入れ替え、展示・公開している。(入館無料)

 次いで左手に向かい、同心番所(登城する大名の供を監視)から百人番所(大手三の門の警護に当る甲賀組・伊賀組・根来組・二十五騎組の鉄砲百人組の番所)へ、さらに大番所(本丸に通じる中の門警護のための詰所)と辿る。左手にはサンシュユやボケが椿の間に見えていた。外国人観光客の団体とすれちがう。この辺りの石垣は堂々として見事だ。高い所に桜が咲いていた。右手に濃い色の花見えて桜と思ったらシナマンサクノ花であった。その向こうの果樹古品種園や緑の島の辺りで勤労奉仕の方々が作業集だったので挨拶を交わして先へ進む。

 見事な山桜の大木があり近寄ってみる。満開の状態で思わず見とれてしまった。

 気が付けば富士見櫓をスキップしていたので取って返す。富士見櫓は明暦の大火(1659年)後、再建されなかった天守の代わりに使用されたといわれる。柵で仕切られていて傍に入れなかったが、坂下門側から見ると風情のあるたたずまいだという。 

 右手に「野草の島」(山野草園)があって富貴草やバイモ・シャガなどの野草の他ウグイスカグラ・やぶ椿などが咲いていた。この先の細い道が忠臣蔵で名高い「旧松の廊下址」らしいが今はその面影はない。やがて左手に茶畑がありその上に建物が見える。旧武器庫の「富士見多門」である。

 右手に広がる芝生広場に魅せられて、本丸御殿跡へ。本丸は表・中・奥の三御殿からなっていたという。1863年の火災で焼失。その後再建されず、西の丸が代わりとなったらしい。ここは気象台発祥の地で明治4年には午砲台(ドン)が設置された(昭和4年に廃止)。桜が数本あって今が盛りであった。記念写真を撮ることにして桜を眺めていた人にシャッターを御願いしたら外国の人であったが快く引き受けてくれた。

 近くに本丸休憩所があるので、小休止するつもりであったが、皆さんの意向で先へ進むことにした。
左手北方に立派な石組みが見えたので行ってみると、天守閣の跡で寛永期には五層六階天守があったが明暦の大火で焼失後は再建されなかった。下からの高さが58mあり、房総半島からも眺められたという。現在は天守台のみが残っている。上に登れるようになっているので上がって見ると、ベンチが置かれており、本丸跡の広場が一望できた。

 天守台から降りると目の前に八角の奇抜な建物が。桃華楽堂といい、昭和41年に香淳皇后(昭和天皇の皇后)の還暦を祝って建てられた音楽堂。屋根はテッセンを模したもので、陶片とタイルで彩られた華やかな作りである。皇后が3月生まれなので桃・華の字が十が六個と一で出来ているので六十一=還暦を表す命名らしい。正面玄関の屋根には鬼瓦の代わりに金色の雛人形が乗っている。

 急な坂道を下る。汐見坂といい、嘗ては日比谷の入り江が入りこんで海が眺められたという。現在は展望はなくビル群が見えるのみ。汐見坂を下って二の丸庭園に向かった。

 左手には各都道府県の木が植樹されており、そのいちばん奥に大分県の県木「豊後梅」が二本、花はすでに終わっていた。

 その先にあるのが諏訪の茶屋。周囲を樹木に囲まれ、歴史と風格を感じさせる茶屋風の建物。明治45年に現在の吹上地区に休み処として再建され、昭和43年に現在地へ移築されたものという。(非公開)庭前にツツジの群落があり5月には鑑賞できそうだ。

 右側は武蔵野の面影を残す二の丸雑木林。中を散策できるように路がつけられている。

 昭和天皇の発意で昭和60年に完成。里山の面影を残すよう枝払い(薪にする)・下草刈り(肥料にする)が行われている。林床なスミレ・チゴユリなどが咲いていた。

 雑木林を抜けたらそこには日本庭園の静かな池が広がる。池の周りには数種の椿が咲いていた。菖蒲も植えられている。

 新雑木林の中の小路を通って白鳥濠の下へ戻り、汐見坂の下を通り過ぎて梅林坂から北桔橋門へ向かう。江戸城を造った太田道灌が天明10年(1478年)に菅原道真を祀り、梅の木数百本を植えたことでこの名がある。現在は昭和42年頃に植えられた50本ほどの梅があるがすでに花は終わっていた。坂を上ると左手に宮内庁書陵部の庁舎。

 天守台の石垣の下を巻くようにして北桔橋門から退園。北の丸公園へは陸橋を超える。

 ここは昭和30年代後半に旧近衛聯隊等多くの建物を撤去して森林公園として造成したものだ。国立公文館や国立近代美術館の建物を右手に見て、左手の近代美術館工芸館へ行ってみた。この建物は旧近衛師団司令部庁舎だったもので、明治洋風煉瓦建築の典型で重文に指定されている。入口には北白川宮殿下の銅像があった。国立近代美術館の別館で陶磁器やガラス・漆器などの工芸品やデザイン作品など約3,300点が収蔵されているとのことだ。

 このあと、北の丸公園の中を武道館方面に向かう予定であったが、ふとしたことから左側の通路から千鳥ヶ淵側へ出てしまった。ウイークデーというのにこちらはすごい人の波だ。丁度満開の桜が淵に垂れ下がるように咲いている。戦没者霊苑から千鳥ヶ淵緑道を巡りながら田安門に向かうが渋滞状態でスムーズには歩けない。落ち往いて花を眺める余裕もないほどだ。当初予定の25人だったらきっと迷子が出たに違いない。

 遠回りしたせいで、予定より大幅に遅れて田安門(寛永13年=1636年の再建・重文)に到着。このあたりの桜もあでやかに咲いていた。

 田安門から再び北の丸公園に入り、武道館の前を通る。この日、武道館では(とうるとうるKANA-BOON)のコンサートが開催されており、グッヅ購入のため少年少女の長い列ができていた。 

 中央の芝生広場の手前に桜が数本あり、その下では何組かの人たちが食事をしていた。

 我々もようやくここで昼食タイムを摂ることができて各自弁当を広げたのがすでに午後1時を過ぎていた。。Mさんは途中で弁当を入手しそびれていたが皆で分け合ったら充分であった。日差しも柔らかく、あたりはさくら色に染まっており、千鳥ヶ淵の桜も遠望できて、まさに今日は花見日和と実感できた。

 食後解散することになり、戸次さん・野田さんとはここでお別れ、残り4人は靖国神社参拝。参道の桜並木も花盛りで、出店が軒を並べていた。

 参拝後は靖国通りを桜並木沿いに市ヶ谷まで歩き帰路に着いた。

参加者
(戸次笛子・永野基昭・野田和文・松浦靖弘・梅谷覚雄・章代)以上6名

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