小田原城址公園(アジサイ・菖蒲まつり)&周辺 (第72回 歩こう会)

 第72回歩こう会として、5月に埼玉の盟主で日本百名山のひとつ・両神山(1,723m)の日帰り登山を企画しましたが、参加希望者不足のため中止としました。代わりに戦国大名・北条氏の居城(小田原城址とその周辺)を訪ねました。

 6月13日(土)この日は梅雨の晴れ間に当り、天候に恵まれたが、30℃近くまで気温が上昇し暑い一日となった。

 午前10時過ぎにJR小田原駅西口に10名の参加者が顔を見せ、先ず西口広場にある北条早雲像(騎乗の勇姿で牛=火牛の計?を供にしている)を見物した後出発。西に向かって坂道を進むとすぐに城山郵便局がある、そこを左折して城山競技場入り口の交差点で足柄街道を横切り直進すると左手に鳳巣院の表示。急な参道を上がると小さなお寺があった。実平山鳳巣院という曹洞宗の寺院で開基は土肥実平(源頼朝の挙兵を助けた豪族)と伝えられている。小田原七福神の内寿老人を祀っている。境内にはアジサイなどが咲いていた。

 元の道へ坂道を下るが、上から見ると相当な急坂だ。車道越しに見える彼方の庭に黄色い梅の実がいっぱい落ちているのが見えた。

 鴻巣院の先の左手、浄永寺の入口に親子連れと見える4~5人のグループが居た。「お先に失礼」と挨拶をして参道に入る。光秀山妙光院・浄永寺という日蓮宗の寺院で北条時宗の家臣・風祭大野之亮光秀が創建の古寺だ。本堂の外、赤い鳥居の稲荷社と七面堂があり、土地の人々は親しみを込めて「七面さん」と呼んでいるようだ。境内には見事なしだれ桜があった。

 ここから先の車道(県道74号)もかなりの急坂だ。左右の人家にはアジサイが盛りだった。曲がりくねった登り道をエッチラオッチラあえぎながら行くと右手に城山陸上競技場が見えてきた。この日は市内の中学校の対抗レースが行われていたようで、スタートの号砲や歓声が聞こえた。(10時40分=小休止)

 急坂を左折して大久保神社(江戸時代に小田原城の初代城主となった大久保忠世を祀る)に向かおうとしたが、県立小田原高校(小田原城本丸跡に建設)の手前を右折すべきところを誤って直進してしまい、小田原市立城山庭球場と高校の間の道を下って行った。相模湾を見下ろす急な石段を降りて行き、右手方向の道を辿ってみたが「どうやら道を間違えた」ことに気づいたのは随分下ってから。時計回りに元へ戻ろうとしたが、簡単には戻れずにうろうろ。そのうちに出会った高校生に道を聞いたが、彼がスマホで調べてもよくわからずに、結局小田原高校の入口まで戻ることにして、彼に細い道を案内してもらいようやく本来の道に戻ったが、およそ30分のロスタイムであった。

 小田原高校の西側を緩やかに下って行くと、左手のはるか下方に赤い屋根が見えた。大久保神社であろうと思われたが、すでに無駄な時間を使ってしまったので、スキップして城山公園に向かうことにした。神社への道の反対側の鬱蒼たる林の中の細い道に入る。この山道も台地を巻くように長々と登っている。途中、草に埋もれたような石碑があり、郷土出身の作家・牧野信一の文学碑との説明書きがあった。この先にはやはり郷土の詩人・井上康文の詩碑もあるとのことだったが気付かなかった。

 城山公園は傾斜地を整備して段差のある広場になっている。周りには桜の木が多く植えられていて、花見のころは賑わうようだ。一番奥には戦没者慰霊等が立っていた。

 犬を散歩させていたご夫婦に「小峰御鐘台大堀切」への道を聞くと、いったん外へ出て左方向に行けば良いと教えてくれた。

 教えられた道を行くと間もなく左手に柵があって、そこから入ると切通しのような道が続いていた。ここは小田原氏が築いた堀と土塁の内当時のの姿を残す遺構で国の指定史跡となっている。濠の跡を辿って足元が草に覆われた道を降る。途中から右手の階段を登り、舗装された道に出ると右手が蓮船寺の入口。

 惺雄山蓮船寺は北条氏規の家臣・井出氏が開基の日蓮宗の寺院で昭和35年に新幹線工事に伴い、現在地に移転したもの。小田原七福神の内大黒天を祀るが、三面大黒天ともいわれ、正面が大黒天、左右に毘沙門天と弁財天という三体が合体する像であるという。参道は見上げる彼方まで急な坂道なので参拝は割愛した。

 正面には小田原の街と相模湾、右方向には箱根の山々を望む道で、北原白秋の歌「からたちの花」の発祥の地と伝えられる。(からたちの花の小径と名付けられている)相洋中・高校の右脇を降るがここからは小田原城の天守閣がちらり見えた。

 10分ほど下って左側の道に回り込んだ所に(みみずく幼稚園)の看板。樹高山西照院傳肇寺の付属幼稚園だ。傳肇寺(でんじょうじ)は西安2年(1300年)創建の浄土宗の古刹で北条氏直の帰依を受けていたという。本尊は阿弥陀如来だが足柄三十三観音霊場の第二十五番札所になっている。北原白秋が境内に庵(みみずくの家)を建てて8年間過ごしたところだ。由緒書の辺りには梅の実が沢山落ちていた。

 傳肇寺を後にした時は早くも正午をすぎていた。東海道新幹線のトンネルの上を通ってすぐの左手に北条早雲に滅ぼされた三浦一族を祀る居神神社があるが見過ごして通過してしまった。東海道線のガードをくぐると国道135号線に出る。松岡氏は「後に予定がある」とのことでここで一行と別れ小田原駅に向かった。

 私達は国道1号(東海道)へ出て直進すると10分ほど先の左手に天守閣を模したような建物が見えてきた。ここは「ういろう本店」といい、元々は外郎を薬として販売してきた店で、現在はういろう以外のお菓子や土産物も商っていて、小田原の名物の一つだそうだ。中をぐるりと見て外へ出たが、土産を求めた人もいたようだ。

 その隣は「山一蒲鉾本店」だ、かまぼこの他「タコ天」なども売っていた。蒲鉾の試食をさせてもらい、ここでもそれぞれ好みの品を土産にゲット。

 少し戻った狭い道に入ると突き当りが足柄街道で右手前が三の丸小学校だ。入口の横に小田原城箱根口門の跡の一部が残っていた。

 足柄街道を横切って南入口から小田原城址公園に入る。この辺りから観光客が目立ち始め、外国語の会話も聞こえてきた。左手には「御感の藤」と名付けられた藤棚があり開花時は見事だという。御茶壺橋を渡る。堀には蓮が生い茂っており、間もなく開花期を迎えそうだった。橋の先・左手には小田原市郷土文化館や市立図書館があったがこちらには人影がない。我々も12時半を回って空腹だったので、先ず昼食の場所を確保することにした。歴史見聞館の手前を左折して朱塗りの常盤木橋を渡り、常盤木門を抜けて天守閣の手前を右に降りていくと広場があり、売店の「お休み処・本丸茶屋」では飲み物やそばなどを売っていた。売店の前には木製のベンチとテーブルが幾つか在って、休憩や食事中の人々で賑やかだ。我々も適宜分かれて持参の弁当を広げ、ビールや戸次さん提供のおつまみ付き黒糖焼酎など賞味した。

 昼食を終え、茶屋の脇から東堀に沿って天守閣へ向かう。堀の中には菖蒲畑があり、6,000株の花菖蒲が、また右手の土手には2,100株のアジサイが今を盛りと咲いており、目を楽しませてくれた。(6月6日~21日は小田原城あじさい・花菖蒲まつり開催中とのこと)

 天守閣は昭和35年に市制20周年の記念事業の一環として復興されたもので、3層4階のコンクリート作りである。入館料は410円。内部には小田原の歴史に関わる資料等が展示され、標高約60mの最上階からは相模湾が一望できる。7月1日~翌4月下旬までは耐震工事のため休館となるらしく拝観の最後のチャンスだ。駆け足で鑑賞し報徳二宮神社へ。

 報徳二宮神社は公園の東南角に当る小峯曲輪跡にあり、幕末に小田原藩や各地の農政改革・財政再建を実践した二宮尊徳(金次郎)を祀り、その業績を顕彰するため明治27年に創建されたという神明造りの堂々たる神社だ。昨年120年祭が行われたという。境内には背中に薪を背負った小さな二宮金次郎像があった。

 馬屋曲輪から馬出門を抜けて小田原城址公園を後にした。予定時刻を大幅に上回る14時半になっていた。

 お堀端通りを北へ向かい10分ほどで駅前のおしゃれ横丁という煉瓦敷きの小路に入るとすぐに小田原四代城主北条氏政と弟氏照の墓所がある。兄弟と氏政夫人と伝えられる3基の五輪の塔があり、「幸せの鈴」と呼ぶ鈴が沢山飾られていた。

 この後JR小田原駅に戻り解散したが、梅雨の晴れ間の天候に恵まれ、嘗ての壮大な小田原城の姿を偲ぶ外溝を探訪することができた。

参加者(坂井大和・戸次笛子・葛城征志・玲子・溝部憲治・田川俊夫・ヒロ子・阿萬和水・松岡幸秀・梅谷覚雄)以上10名