2014年 東京四極会回想録 (第30回 寺田洋太郎)

[事務局から]
現在の東京四極会の立ち上げにご苦労された寺田先輩の当時の回想録を「東京四極だより」に寄稿いただき、記事として2014年9月号に掲載しました。
HPでも、先輩諸氏の四極会活動に寄せる熱い思いに触れられた寺田先輩の回想録を1から3まで通して再度まとめて掲載します。

「四極会が好きだった」 (わが回想録-1) 寺田洋太郎さん(第30回)

昭和30年、私は出光興産に入った。成績優秀ならば門司本社か、新しい東京本社勤務になろうが、私は大分から遠い東北支店に配属された。仙台に着任して間もなく、ゼミの内田先生のお勧めで先輩方を訪ねて挨拶した。

大先輩は塩竃で太洋漁業系の缶詰会社を経営されており、冷凍機用の潤滑油を買って下さった。小野田セメントには幹部二人、西松建設では大分高商出の支店長が、地元の七十七銀行には大分経専卒の若手が活躍されていた。岩手との県境にある三菱金属鉱山の先輩も忘年会などにはご参加下さった。

年に数回、小野田の幹事さんの肝煎りで総勢七人の同窓会が開かれ、若輩は御馳走になることが多く、嬉しかった。幹事さんは小柄だが眼光鋭く大声の持ち主、私は孫悟空の尊称を奉り、今もお付き合いさせて頂いている。数年後、私は出光を出て新しい会社勤務になり渋谷に住んだ。孫悟空さんの紹介で、東京の同窓会に出てみた。

首相官邸近くのグランドホテル(今はない)が会場。立志伝中の化成会社U会長がナイトクラブの美女たち大勢を呼んで下さったので大変な熱気だった。それ以来、私は東京四極会が好きになった。

七人だった仙台に比べて大変な大所帯なので、卒業年次毎の幹事役理事がいて、定期的に理事会が開かれ、運営等を協議する仕組みができていた。しばらくして私は大学3回卒の理事を仰せつかり、東京四極会にはまり込むことになった。

理事会には有座猛・野口旦夫・濱田健・前川徹朗さんら論客が揃い、議論に花が咲いた。新年会や初夏の定時総会は皆勤した。毎回おおむね15~20枚の新しい名刺を頂いた。これが後の東京四極会の名簿作りに大いに役立った。新年会、総会、理事会の後は必ず某所に出掛け、御馳走になったり御返ししたり、懇親の輪が広がった。会の運営に欠かせない会費集めは、名簿が頼り、名簿整備は学年幹事の仕事だった。理事会では同期生の会費納入状況が配られるので、成績が芳しくない期の理事の出席は、勢い奮わなかった。

事務局長は、48年から55年まで高商出の白木賢二さん。あとを引き継いだ松川正さんが風呂敷包みに資料を入れて会費集めに回られ、63年に退任。59年から62年頃は高商先輩の増田喆三先輩が支配人・常務を勉められた都市センターホテルを格安にご提供頂き、総会や理事会に何度も利用した。会がはねてから、某先輩経営のクラブ「セラビー」によく誘って頂いた。場所が新宿だったか、銀座だったか、マスターのご芳名も記憶の彼方に消えて残念。

「東京四極だより発行!」 (わが回想録-2)

理事会では役員人事が議題に上る。そのころの理事長は大先輩がずっと務めておられており、「若手に代わってほしい」と毎年申されていた。ある年の総会前にも同様の発言があったので、私が「本当に交替したい」と思ってのご提案ですか?と伺ってみた。失礼な発言は若気の至りで大変申し訳なかったが、やがて理事長交替が実現した。

新しい濱田健理事長が数期務められたあと、昭和60年に野口旦夫さんが理事長に就任した。昭和61年に事務所が移転した。学年幹事からの名簿リストを私がワープロで入力し、野口理事長の会社の輪転機で印刷して東京四極会の名簿を完成させ、会員に配布した。この入力作業のお蔭で先輩後輩の名前が私の脳裏に刻まれた。この頃、戦闘機乗りから復員された寺司勝次郎さんが、「屋根の版画」個展を大分にゆかりのある小田急百貨店で開催して、毎年1枚ずつ買わせていただいた。

名簿整理ができたら、今度は会員とのコミュニケノション新聞を出すことを企画した。ワープロで打ち込んだ記事を、野口理事長の会社に持ち込み、切り貼りしてタブロイド版に仕上げて、印刷配布した。私の後、安藤幸生名編集長が工夫して、「東京四極だより」を活版印刷に格上げされ、現在に続いているのは誠に喜ばしい。

国会では昭和58年の参院選に当選した梶原敬義参議院議員が商工委員会や決算委員会で活躍されていた。装置産業の石油畑に籍を置いて通産省との折衝が仕事だった私は、国際情勢やいろんなノウハウを議員から教わり今も感謝している。梶原議員は平成7年の村山内閣では大蔵政務次官を務められた。仕事に必須の石油精製技術の新たな潮流は糸永文雄さんに、経済全般については山本文義さんにお聞きした。同窓の先輩は親切で有り難い。

コンピューター販売の子会社ではNECの安藤幸生さんに優遇価格を適用して頂いた。システムハウスになってナイジェリア・プロジェクト等で手不足の時には、同業経営の鳥越幸雄さんからSEを応援に出して貰い窮地を脱した。その鳥越さんは、最近、京都と鎌倉「史跡散歩」という歴史書を出した。博識に敬意を表したい。

四極会の会費を集める方策について、山村榮一・有松英俊両氏の世話で三菱系列ネットDFでの自動引落し制度が導入されて便利になった。

若手を勧誘する方便として、卒業年次の浅い諸君の会合費を安くしようと提案し、今も続いている。他方、巷では「シルバー割引」が一般化してきたが、先輩の会費優遇案は多分出ないだろう。

「仲間から生涯学習のヒントを」 (わが回想録-3)

同窓会はマンネリズムになりがちといわれる。それを脱するのは世代交代が望ましいと私は思った。そしてトップには、自由度の高いオーナーにお願いするのがいい。その点で、そろそろ経済専門学校出身が旗振りすべきと進言して前川哲朗さんが理事長になった。

衛藤晟一さんが衆議院に初当選された平成2年には、前川理事長が佐伯方面から上京されたお母様ともども野口旦夫さんのアレンジによる青山料亭にお招きして祝意を表した。衛藤議員は現在、内閣総理大臣補佐官である。ご活躍をお祈りしたい。

大分大学経済学部と名乗るだけで、大会社でも秘書がトップにつないで下さるのが同窓の有難味であり、強み。徳山背達でも、お蔭で商談が早くまとまった。個人情報保護が制度化され、名簿や連絡網の類いが姿を消した現代のネット社会では、同窓会を利用できるメリットは消えたのだろうか。

前川理事長から、今度は経済学部出身が引っ張るべきだと諭され、ご指名を受けて久保徳雄さんを新宿高層ビルの社長室に訪ね賛意を求めた。新聞に 「火の玉軍団」と称えられた技術集団を引っ張り飛躍される時期だった同氏から「社業多忙で理事長は引き受けられないが、それ以外ならどんなことでも協カする」との彼の言葉で、残念ながら久保理事長構想は幻と消えた。この久保さんとの接点が、後の「久保徳雄奨学金」誕生の伏線になったと思われる。

経専から大学へという前川構想は結局、荒木襄さんの理事長就任で具体化した。荒木さんの後、私はその昔、東京四極会の財政危機を救うのに尽力した高嶋幾雄さんに理事長で一肌脱いでもらおうと口説いた。惜しい事に高嶋さんは病と闘い帰らぬ人となった。高嶋さんを惜しむ私は東京四極だより第59号に追障文を載せて貰い、前述の久保さんは本部会報 「四極N0.106」に追想のメッセージを掲げた。

理事長職は、荒木さんから一万田道敏さんに、そして姫野易之さんにと、三菱系の実業家が牽引して下さって現在に至っている。頼もしい限りである。

四極会は文字通りの異業種交流の絶好のチヤンス。若い世代の方々も四極会の会合に出て、同期や近い世代間の親睦だけに留まらず、どうか年次を越えて意思疎通を図り、意気投合できる仲間探しを積極的に進められることを進言したい。同窓会で損得を論ずるのは可笑しいかもしれないが、同窓の大きな輪に入って生涯学習のヒントを得ることに違和感はない。どうぞ公私ともに充実した楽しみを享愛していただきたい。

(文中、無断でお名前を拝借した方々にはどうかお許しをいただきたい)